嵐オタという生きがいをなくした大学生
嵐が好きだった。二宮がだいすきだった。
でももう過去形です。
半年くらい前から「嵐がすきなのかわからない」と感じ始めました。
ただなんとなくうまく言葉にできないけれど喉に引っかかる「何か」を感じて
なんで嵐がすきだったのか分からなくなりました。
あれ?私今ときめいてるか?
心がぐわぁあって揺れる感情、最近嵐に抱いたっけ?
「きっかけ」があるのかわかりませんが私の以前の嵐に対する情熱はいつの間にか薄れていました。作業のように出演するテレビ番組を録画しては流し見して、CDやらDVD(ブルーレイだけど)が出るたびに何も考えず本当に作業のように買って。コンサートに関しては行きたくてもいけない人がいる中で発言するのはいかがなものかとも思いますが、ちゃんと自分名義で当てた地元のアリーナツアー。本気で楽しみにしてた。9年の年を経てちゃんと帰ってきてくれた。その事実が死ぬほどうれしくて。でもその直前に自担のスキャンダル。もともと私は自担に盲目で溺愛♡っていうファンではないので、もう正直アイドルという仕事なめてる。、と強い怒りを覚えました。それでももう少し信じてみようと思いコンサートに行きました。でもな。なんだろう。コンサート中ずっと泣いていました。会えてうれしかったしおかえりを歌ってるときはほんとにこの瞬間を待ってたんだ、って思った。でもなんだろう。なんか言葉にはできないつっかえたものがあって。まだそのときにはわからなくて。
JaponismのDVDがでて、みてた時に気づきました。私、嵐に心が動いてないな。って。私にとってこの人たちは特別な胸を熱くさせる存在じゃなくなったんだ。ずっとすきだった。こがれてた。今はすきだけど、なんかちがう。
だけど私自身春から大学生になって大きく生活も変化して。こうやって熱は落ち着いていくもんなのかな、ってそう思ってたんだけど。
いつもわたしの心の中を占めてたあのひとの割合が気づいたらほぼない。
それは私の感情の変化だけではなくて、嵐が、いつのまにか変わってたんだ、と。変わることもあるけれど、大切なことはちゃんと覚えていてくれるとおもっていたことがなんとなく忘れられている気がした。
その理由はほかの嵐の担降りした方々がたくさん語っていると思うので割愛。
ただ一言で言えば「夢」が見えない。
私は嵐を好きになる前からサンテグジュペリの「星の王子さま」が好きです。
そのなかのとても有名な言葉。
「ものごとは心で見なくてはよく見えない。大切なことは目に見えない。」
嵐の表面には見えない熱と欲が今の私には伝わってこない。
正直ぬるい。
わたしにはそうみえた。
そして私はいつからか嵐のファンを名乗っていない。
勢いで書いてしまった初記事だけどこれが私の素直な気持ちです。
これから私のすべてを占めてた生きがいを失くして、どうやって自分と向き合って生きていくのか、考え、ここに残そうと思っています。
誰かのために書いているわけではないし、ひとりごとを書いた紙切れを道端に落としていくような気持ちです。