深みにハマって世界は輝く。

生きがいとはなんぞや

言語を抜けた先。


冷静に自分や他者を分析することがすきだ。
それは、人に限ったことではない。

分析がすきなのだ。
特徴を捉え、状況から行動や言葉、考え、あらゆることの理由を推測する。

常に私の思考はこのロジックが占めている。

小さい頃からことあるごとに
あらゆることの理由や原因、正体を知るために調べた。
両親は教育熱心だったけれど本人らの教養はなかった。
だから親に聞いても答えは返ってこない。
ただ、たくさんの「答え」が含まれた本や媒体を与えてもらった。
興味があるものに関してはすぐに調べて「答え」を探した。

だけど人間、存在すら知らないものに興味はわかない。
その存在を知らしてくれるものが、小説や学校の授業やテレビだった。
そうやって、世界は広がっていく。

広がってはいったが、浅いのだ。

中学2年のとき、ノートパソコンを手にいれた。
それまでも家族共有のパソコンはあったが、私専用のものが出来たことは大きかった。
古くてポンコツなPCだったが、インターネットの世界は今までとは違う深みを教えてくれた。
いや、言い方を変えよう。
ある種偏った興味を芽生えさせた。それは思春期のアイデンティティの確立にも重なった。
その興味の偏りこそが、世界の一部を深くさせるのだということを知った。
ただ偏ってばかりでいると人間広い世界が見えなくなる。

他人が書いた文章は私にあらゆる偏りのなかに深みがあって私に見えていることはほんの一部なのだということを教えてくれた。
他人の書いた文章。
それはある時、たまたま手にとった本のなか。
ある時はインターネットの見知らぬブログのなか。
ある時はまた、現代文の教科書のなか。

言葉は面白くて
自分の考えや感情さえも文章にして紙に残した。
書くことが楽しくてしょうがなくなった。

ひたすら知識や考えがインプットされた私の頭から、言葉を吐き出して、綴ることで満足した。

それが私の中学高校時代だった。

そして大学生になった。
2回目の桜が散った今、やっと私は新しい楽しみを見つけた気がする。
人と話をして人の話を聞く。
当たり前の人間の行動だが、私は相対的にこれが不足していたんだと気づいた。

生の会話には言葉(language)だけじゃない情報がたくさん含まれている。
いわゆる非言語的情報。
感情や感性、情緒的思考。他者のそういうものを汲み取る力が足りていない。
簡単に言えば人の気持ちがわからないのだ。
人の考えや状況や客観的事実を察知することはできる。
しかし、それを知って自分の感情に当てはめてみることや、ロジックに合わせて分析して判断することしかできないのだ。

パッと相手の気持ちを読み取れない。ある程度までしか。表面的にしか。
少し大袈裟に表現しているから、なんだかロボットみたいで温かみのない人でなしのようだけど流石にそんなんではないのだ。

ただつい最近まで自分がそういうところがあるということに気づいていなかった。

言葉にならないなにかを共有する喜びをやっと知った。
同じ空間にいたい。顔を見て、どういう反応をするのかがみたい。
微妙な差異や変化に世界を広げる力はないけれど
他人という別の次元の世界を覗くことができる。
もっといけば他人と自分というふたりの新しい別の次元のなかにいける。

今は共有というものがなんていいものだろうと感じる。

時間や空間を君と共有しよう。そんなことを思う私がいる。

何かを伝えたくて書いた文章じゃない。
なにか見えたこの感情を残しておこう。